【かなめ日記】「浜岡原発を訪ねて」

掲載日:2014.03.03

 今回の視察で、事故を起こしていない原発を真近で見、現場でご努力される方々のお話を伺うことができた。そして、政治の難しさも改めて痛感した。まさに生活の掛かっている現場の皆さんが、真面目に必死に、プライドを持って目の前の任務を遂行している姿は、本当に心打たれる。そして、そうした方々に、それでも原発はできるだけ早く無くして行かなければならないと伝えることは、本当に辛い。しかし、それは、政治にしか成し得ない、重たい任務でもある。
 国の示した新しい安全基準、それ以上の対策を講じようとする企業の姿勢は、立派だ。その責任感や使命感は痛々しいほどだ。ただ、他方、どこまでやっても、絶対安全、とはならない。それは、絶対無理なのだ。世の中およそ何だってそうじゃないか、という達観した声もあるが、原発は異質なのだ。発生確率はごく小さくとも、ひとたび最悪の事態になれば、人類の手に負えなくなることも想定されるからだ。
 311は、あれほど多くの犠牲が出ながらも、偶然が重なって、最悪の事態を回避できていたことを、忘れてはならない。どんなに強化された安全対策も、いわば人間が自然界に挑戦するような話であって、自ずから限界があるのだ。過去の経験は過去の経験に過ぎない。過去の経験を基にどれだけ防波堤を高くしてみても、それは、やれる事は全てやり切ったという納得感を得る取り組みに過ぎない。過去からは想像のつかない巨大な地震や津波は、容赦無く起こりうると悟ることこそが、歴史からも自然からも謙虚に学ぶ人類の叡智であるはずだ。
 私は再稼働に絶対反対の立場ではない。どうしてもやむを得ない場合には、本意ではないが、過渡的に短期間の再稼働はありうると考える。ただし、原発には一定のリスクがあるという冷静な納得とコンセンサスの上に立った再稼働であるならば、だ。そしてもちろん、できる限り速やかに、政治の決断で、人類は原発を過去の物としなければならない。
 原発のような人類規模の危険を冒さずとも、必ず他の領域での科学技術の進歩によって、幸せで豊かな社会を持続的に築いて行く手段は生み出せると信じたい。いずれの道にも賭けの側面は残るが、一人の政治家として、私は、明確にそちらに賭けるリスクを取りたい。

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