たじま 要 / たじま かなめ
生年月日 | 1961年(昭和36年)9月22日 |
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血液型 | O型 |
家族 | 妻、長女、次女、長男と千葉市稲毛区に在住 |
趣味 | 旅行、声楽、ダイビング、読書、テニス |
好きな言葉 | 足るを知る(「知足」) |
政治哲学
第1の政治哲学 最も困っている人、苦しんでいる人のために汗をかく
災害現地対策本部長として福島での3ヶ月間の駐在任務(2011年6月から9月初旬まで)は、いま最も苦しんでいる福島の被災者のために汗をかけたという意味で、政治家として本望でありました。と同時に、私の政治家人生の中でも実に貴重な経験、かつ大きな転機となりました。これからも福島と東日本の被災地の復興を、わが国の国政の中心的課題として、かつ新たに逞しい日本を自分たちの手で築き上げていくスタートラインとして位置づけ、引き続き全力で国政にまい進します。
また、日本全体を見れば、平成の30年あまりの間に国の姿かたちが大きく変容し、格差や貧困の問題はより深刻化し、社会の弱い立場に置かれた人々はむしろ増えている現状があります。令和の時代には、これまで以上に誰も置き去りにはしない社会を目指して汗をかいて参ります。
第2の政治哲学 夢と希望とを追い求める
政治には明るさが必要です。ワクワク感も必要です。
誰しも将来・未来には不安があります。そしてその不安を乗り越えるためには、何か信じるもの、何か目指す目標、そして日本がこんな国になる、そんな日本に自分も生きられる、そう国民ひとり一人が感じられることが大切だと思います。そういう意味で、いつの時代であっても、人にも国にも「成長」は必要です。
ただし、「成長」は質的に変化するのだと思います。今後は、やはり経済的な豊かさ、物質的な豊かさ以上に、精神的な幸せ、内面の充実感、安心感がより強く求められる日本になっていくと思います。そうした意味で、私は令和の時代もぶれることなく自然エネルギー社会の構築を軸としてワクワクする日本、心穏やかに暮らせる日本を広げて参ります。自然と共生する持続可能性の高い社会が目指すべき方向性です。
第3の政治哲学 国際社会での使命を果たす
世界を知れば知るほど、そして歴史を学べば学ぶほど、日本はすごい国、すばらしい国だと思います。これまでに培った日本の技術・知見や文化や日本人の精神性は、これからこそ世界に大きな貢献ができるのです。私は日本を世界の中で、ジュエリージャパンと信じています。
核廃絶のイニシアチブは言うまでも無く、省エネ技術やCO2を出しにくい技術や、全国の多様な伝統文化ものづくりなど、21世紀のわが国が、世界全体を、より平和に、より幸せな場所にするために、大きな「使命」を持っているのだ、という感覚が重要だと思います。平成の時代に大きく遅れをとった自然エネルギー社会の構築については、これから令和の時代に挽回していかなければなりません。
第4の政治哲学 子どもたちのことを中心に考える
極論を言えば、「政治は子どもたちのためにある」と言っても過言ではないと思います。生まれた瞬間の人間には、平均すれば最も長い人生があります。だからこそ、その人の人生に及ぼす政治のインパクトも最大になります。
大人たちは、それぞれに、次の時代・次の世代のことを意識しながら生きているものです。
その意味で、政治は、今を生きる大人たちが、未来の世代・次の世代に恥ずかしくない日本を残し、しっかりと引き継いでいくことだと考えます。令和の時代が、すべての子供たちの命が当たり前に守られ、真に「人への投資」「教育」を軸とした国づくりへと進化していくよう全力を尽くします。
第5の政治哲学 社会の不条理・不公正を排す
官と民との間の不公平を正し、「官尊民卑」と徹底的にたたかい、税金の無駄遣いとたたかい、犯罪や不正、虐待、差別、いじめ、生きづらさのない社会を目指します。
平和を脅かす脅威とたたかいます。毎年2万人を超える自殺者が出てしまう日本、若者の第一の死因が自殺などと言う悲しい日本を一日も早く終わりにし、かつ誰もが絶望することなく何度でも人生に挑戦できる社会にしていかなければなりません。
政治家になるまで
1961年 (昭和36年) |
9月22日生まれ O型 あの吉田茂元総理大臣と同じ誕生日です。 |
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1985年 |
東京大学法学部卒業 |
1991年 |
米国にて経営学修士(ウォートンMBA) |
政治家になってから
2003-2009年 |
民主党公募候補として 第43回衆議院議員選挙に初当選 |
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2010年 |
当時の菅総理からの指名で「経済産業大臣政務官」を拝命しました。「成長戦略」推進、COP16出席、資源外交推進などを含め、まさに「水を得た魚」のような気持ちで、全力投球させて頂きました。昔、国際ビジネスをやっていた時代の英語が、突然また必要になりました。 |
2011年 |
当時の菅総理、海江田経済産業大臣に請われ、突然、「原子力災害現地対策本部長」を拝命しました。3.11からのわずか3ヶ月の間に現地の本部長が何度も交代し、国会でも強い批判を浴びましたが、その後を継いだ私は、お蔭様で無事3ヶ月間の任務を全うすることができました。子どもや妊婦さんの健康を守ることを常に意識しながら、福島県知事・副知事や多くの飯舘村の菅野村長や川内村の遠藤村長を始め多くの市町村長の皆さんとも連携して、様々な被災者支援を行わせていただきました。 10月に福島から帰任し、同時に経済産業大臣政務官の任期も終了。久しぶりに国会を中心に衆議院議員としての活動を再開しました。経済産業委員会の筆頭理事、東日本大震災復興特別委員会の次席理事、民主党復興プロジェクトチームの事務局長、超党派の地熱発電議員連盟の事務局長、経済産業部門座長などを拝命しました。 |
2012年 | 初めて所属する法務委員会の理事として活動しました。 現在特に力を入れている政策分野の一つである再犯防止の必要性に気づくきっかけとなりました。 12月に行われた選挙では、大変な逆風の中、なんとか小選挙区で勝利をすることができました。 |
2013年 | 再び野党に転じたこの年、最初の大仕事はネット選挙運動解禁でした。鈴木寛参議院議員(当時)らとともに各党協議会に代表として参加。その年の参議院選挙でのインターネット選挙運動解禁を実現しました。
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2014年 | 超党派の再犯防止議連を立ち上げ、我が国全体の問題として再犯防止に取り組む体制を作るべく立法作業に取り掛かりました。またエネルギー政策についても、党エネルギー調査会の事務局長として、分散型エネルギー社会を軸とした諸法案の起草に着手しました。 12月の総選挙では現職三人が争う激戦の中、小選挙区で当選することができました。 |
2015年 | 分散型エネルギー社会中間報告を発表。分散型エネルギー社会とは、リスクを分散し災害に強い国を作るとともに、エネルギーの中東依存を脱し、地域の資源を生かした分散型エネルギー社会を構築することにより、地域のお金を地域でまわし地域再生・地域活性化を行おうとするものです。 また、当時の枝野幸男幹事長とともに千葉市内の児童養護施設等を視察。まだ児童虐待等の問題に注目が集まる前でしたが、調査を進める中で我が国の社会的養護政策に改善すべき点が多いことを痛感しました。特に社会的養護が必要な子どもたちが家庭的な環境ではなく施設で暮らすことが他の先進国と比べても圧倒的に多く、特別養子縁組を推進する必要性を訴え、超党派での取り組みを始めました。 |
2016年 | 法案の起草から取り組んだ特別養子縁組促進法、再犯防止推進法が成立し、分散型エネルギー社会促進4法案も提出にこぎつけました。
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2017年 | 分散型エネルギー社会実現のため、原発に頼らない社会を作るという政治的決断を表明するための脱原発法案の起草に着手しました。結局解散総選挙のために日の目を見ませんでしたが、その骨子と精神は立憲民主党に引き継がれ、現在の原発ゼロ法案として結実しました。 秋の総選挙では、当時の民進党が希望の党に合流するという晴天の霹靂ともいうべき事態が発生。大変厳しい戦いでしたが、比例復活で議席を得ることとなりました。 |
2018年 | 希望の党が解党し、国民民主党が結党されましたが、私は無所属になる道を選びました。それまで通り中道のど真ん中に立ち、大きな野党勢力の結集を目指すという信念を貫くための選択でした。5月には院内会派である「無所属の会」に所属し、岡田克也議員や野田佳彦議員らとともに活動しました。
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2019年 | 無所属の会の多くの同志とともに、立憲民主党との統一会派「立憲民主党・無所属フォーラム」を結成。 同会派所属議員として立憲民主党のエネルギー調査会会長代理に就任。 |
2020年 | 旧立憲民主党、旧国民民主党および無所属の議員が合流して設立された新たな立憲民主党の結党に参加。 衆議院科学技術・イノベーション推進特別委員会委員長に就任しました。 |
2021年 | 地球規模の課題である温暖化対策・エネルギー政策策定の責任者である環境・エネルギー調査会会長として、分散型エネルギー社会の実現に向けて活動しています。
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